閣議決定をコロコロ変えるな論は論拠がない

 集団的自衛権の議論の中の一つに「時の政権によって憲法解釈がコロコロ変わってはならない」というモノがあります。
 次のような主張です。
 

 集団的自衛権:高村氏「憲法解釈ころころ変わらない」
 
 公明党の山口那津男代表は20日夜、テレビ朝日の番組で「時の政権で解釈がころころ変わり、安定性が損なわれてはいけない」と指摘した。高村氏の発言はこれを踏まえたとみられる。同氏は「今までの政府解釈と継続性も整合性も十分ある中での解釈変更だ」と強調した。

 
 最近こういう言い方で集団的自衛権に反対する人が多くて、記事のように公明党もそうですし、民主党や共産党や社民党など、多くの野党もこういう言い方で問題だと言っています。
 すなわち、閣議決定というモノは内閣の意思だけで行うコトができる行為ですから、この閣議決定というモノだけで憲法の解釈を変えられるのであれば、次の内閣ではまた別の解釈で変更が可能であり、そんなコトを繰り返していると果たして憲法の権威が損なわれてしまうのではないか、有名無実化してしまうのではないか、という指摘です。
 確かに一見するともっともような指摘に見えます。
 
 しかしこの意見というのは、かなり憲法とか憲法解釈とか閣議決定というモノを歪めて見ている意見なのではないかと思うのです。
 というのも、ハッキリ言っておきますが、憲法解釈と憲法改正は全くの別モノです。
 当たり前と思うかもしれませんが、実はここをいまの議論ではごっちゃにしてしまっている人、一緒に考えてしまっている人が案外多いんですね。
 憲法解釈というのはあくまで憲法の内側にある考え方です。
 例えば自衛隊の存在そのものも、憲法解釈が憲法を超えて特別扱いとして解釈によって存在できているのではなく、あくまで現行憲法が認めているからこそ自衛隊は存在しているのです。
 ですからたまに、さも集団的自衛権が憲法に違反しているかのように言う人がいますが、解釈変更は「現行憲法下でも合憲だ」という前提のもとに安倍内閣はこれを進めようとしているのであって、よって違憲だという前提で批判をしても、これは議論が噛み合うコトはないんですね。
 前にも散々言いましたように、合憲か違憲かというコトを判断する機関は裁判所しかありませんから、これは裁判所以外の人間が議論しても絶対に結論は出ないお話だからです。
 
 ですから前提として、「違憲だと思うなら裁判するしかない」という前提を踏まえなければ、裁判所以外での集団的自衛権の議論は成り立ちません。
 逆に言えば「意見だから反対だ」という人は、議論する意味もないんですね。
 議論するだけ時間の無駄で、「それでは裁判で白黒付けましょう」という結論しか得られないのですから。
 
 よってこの前提を踏まえれば、「解釈変更は現行憲法の範囲内で行われる」という前提にもなるワケですから、閣議決定できる権利を持つ内閣のその専権事項を、他の人間が阻害するような言い方は、むしろしてはいけないとすら言えるのではないのでしょうか。
 もっと言えば、その内閣は、それは国民の意思によって形成されるのであり、それを阻害するのは国民の意思を阻害するとすら言えます。
 もしその阻害する根拠が民主主義や法治国家にかなう理由があれば別、例えば法律の制定によって集団的自衛権を放棄するっていう行為なら正しい根拠のもとの正当な行為ですが、しかし「コロコロ変えるな」というただの「意見」だけで国民の意思のもとに行われる内閣の正式な手続きである閣議決定というモノを縛り付けるというのは、甚だ越権行為であると言うしかないでしょう。
 
 ハッキリ言えば、「コロコロ変えるな」と言っているその「変えてはならない」の根拠が、実はかなり希薄なんですね。
 「変えてはならない」というのがまず絶対正義として成り立たなければこの論は成り立たないのですが、しかし「なぜ変えてはいけないのですか?」という質問の前には明確な答えはなく、そこにあるのはただただ「ダメだからダメなんだ」という子供の駄々と変わらない理屈しかないのです。
 そんなモノに、国家の正式な手続きである閣議決定が縛られる謂われはありません。
 
 解釈を変えてもいいんですよ。
 それが国民の意思なんですから。
 ですからもしですね、今回の安倍政権での集団的自衛権の解釈変更が国民の意思にそぐわないモノであれば、次の選挙で野党は「集団的自衛権を禁止するよう解釈変更します」と言って選挙に挑めばいいのです。
 そしてその結果、そういう主張の政党が第一党になれば、それは国民の意思ですから、その国民の意思のもとに堂々と閣議決定によって解釈変更すればいいのです。
 
 さらに言えば、「憲法解釈をコロコロ変えてはならない」という理屈でいま憲法解釈を変えるコトを禁止するのであれば、それは「今の国民の意思よりも、30年前の国民の意思の方が上位に立つ」という理屈が成り立つコトになってしまいます。
 繰り返しますが、現行憲法で集団的自衛権が違憲であると裁判所が判決を下すまではその結果を誰も確定出来ない以上、これらの議論は全て「憲法の範囲内」で行われているという前提となりますから、よって閣議決定や国会での政府答弁などで出された「集団的自衛権は行使しない」という決定も、あくまで当時の国民の意思のもとで存在した政府の閣議決定などで定められたモノでしかありません。
 簡単に言えば、集団的自衛権を行使しないという決定は、憲法で禁止されていたモノではなく、「当時の国民の意思で禁止していたモノ」なんですね。
 よって、もし憲法で「昔の国民の方が偉い」とか定められているのであれば別ですが、そうでないのですから、閣議決定を閣議決定で変えてはならないなんて言うのは30年前の国民の意思が今の国民の意思よりも尊重されなければならないと言っているの同義でしかなく、しかしその論拠が希薄だと言わざるを得ないのです。
 なぜ30年前の意思の方が上位なのでしょうか。
 その根拠はなんなのでしょうか。
 
 もちろん憲法解釈の変更は国家にとって大きな変化ですから、簡単に変えていいとは言えません。
 ただ閣議決定をもって「簡単に変えてはならない」と言ってしまうのは、むしろ閣議決定が軽いと言っているのと同義であり、それはちょっと日本という国家を軽く見過ぎているのではないかと思ってしまいます。
 また、議論は多いに越したコトはありませんから、憲法解釈変更には多くの時間をかけて議論するっていうのは賛成ですし、実際に安倍内閣ではキチンと議論に時間を費やそうとしていますよね。
 今日だって衆議院で集中審議をしていました。
 ですからそういう中において、しかし論拠が薄弱な「コロコロ変えるな論」で解釈変更を止めようとする言い方というのは、筋が通っていないと言うしかないのです。
 
 どうせ議論するなら、憲法論議なら憲法論議でも構いませんし、集団的自衛権の中身についての議論でも構いません、そういう実りのある中身の議論をしてほしいと思います。