北朝鮮に「強く言う」とはどういう意味なのかを考える

 今日はこちらのニュースです。
 

 もっと強く言って…被害者家族から不満の声
 
 拉致被害者らに関する北朝鮮の調査報告がずれ込む見通しとなる中、政府は19日夕方、拉致被害者家族らへの説明会をひらいた。
 午後5時半から始まった説明会は午後6時半現在も続けられている。今月中にも、とみられていた報告がずれ込む見通しとなった事について、拉致被害者家族からは不満の声も上がっている。
 
 こうした現状に対し拉致被害者家族からは、「早く報告するようもっと強く言ってもらいたい」との声も上がっている。

 
 北朝鮮にとっては拉致した人を日本に帰せば北朝鮮の暗部が知れてしまうなどの理由があるのかもしれませんが、そんなのは被害を受けている日本としては関係ないお話でして、身から出たさびとはまさにこのコト、一刻も早く全員を帰国させる義務が北朝鮮にはあると言えます。
 これは大前提で、当たり前のお話です。
 ただ、どうしても国対国が絡むと、原則論だけではコトが進まないっていうのも、現実の悲しいところです。
 北朝鮮に非があるとハッキリしていても、例えそれを北朝鮮自身が認めいてたとしても、簡単に問題が解決するワケではないんですね。
 
 なぜなら、国が違うからです。
 国が違うと常識も感覚も法律が違いますから、いくら日本の常識や法律で正しいコトを主張しても、それが他国で常識や正義になるというコトにならないのです。
 ものすごく簡単に言えば、日本で殺人を犯したとしても、犯罪人引き渡し条約を結んでいない外国に逃げてしまえば、その国にとってはその国の法律を犯していないのですから、即刻逮捕とはならないワケです。
 そしてこれは法律論だけでなく現実論として、その法律は警察などの実行力を持つ部隊が存在するからこそ法律の実行力を担保できているという事実がある以上、すなわち日本の警察権が及ばない外国においては警察が実力を持って犯人逮捕ができないですから、法律の実効性が外国では担保できないワケなんですね。
 
 もし北朝鮮に日本の警察が存在して拉致実行犯や指示者などを逮捕できるのであれば、拉致問題はすぐに解決できていたコトでしょう。
 しかしそれが不可能だからこそ、この問題は未だ解決の糸口さえ見えないのです。
 
 ではどうするのかと言えば、やはり外交しかないワケです。
 外交とは、そういう法律や常識が異なる国同士での利害の調整を言います。
 これは大変に難しいんですね。
 別の国だというコトは常識や法律が存在しないというコトであり、すなわち「基準点が存在しない」というコトだからです。
 もし日本人同士が日本国内で交渉するのであれば、それは日本の常識や法律を基礎として行われるコトになります。
 例えば「お前の社員を拉致した。返して欲しくば1億円用意しろ」という交渉をしたとしても、しかしその行為は日本の法律によって禁止されている行為ですから、お互いの妥協点を探るっていう外交交渉をするまでもなく、法律が優先されて警察が動くコトになるでしょう。
 しかしこれが国同士だと、国際法というあやふやな基準点は存在するにしても、それすら守る義務は厳密にはないワケで、北朝鮮のようなならず者国家であれば、「拉致はしたけど全員帰国させる義務などない」と突っぱねてしまえば、それを悪だと断罪する基準点がないために、ゼロからの交渉をするしかなくなるんですね。
 そもそも法律を担保する警察力が存在しないのですから。
 ここが外交の難しさなのです。
 
 よくニュースなどで外交の問題が報道されますが、それを受ける国民としてはどうしても「日本人としての日本国民としての常識で判断」してしまいがちです。
 拉致問題が一番分かりやすくて、「拉致は悪」だと日本人としては常識でそう判断されるからこそ、それが進展しないコトへのいらだちに繋がるワケです。
 「当たり前のコトがなぜ前に進まないのか」という心理です。
 しかし残念ながら、北としては日本人のような常識が通用しないので、実際の交渉はなかなか前に進まない。
 この現実のギャップが存在してしまっているんですね。
 
 ですから交渉とは、常識の基準点が存在しない中での両国の凌ぎ合いの場なんですね。
 どんな内容だったとしても、外交するっていうコト自体が大変に難しいモノだと言えるワケです。
 
 さてその上で今回のこの反応です。
 話し合いでの外交は基準点がないので膠着状態に陥ってしまうという欠点があり、特に拉致問題とか領土問題はそうなりガチです。
 そしてそれ以上に、「自分たちこそが正義」と自らの常識で考えてしまう問題は、さらに国民が膠着状態にいらだちが募ってしまうという欠点が存在します。
 自らが正しいと思えば思うほど、実はその外交交渉は大変に難しいモノなんですね。
 しかしいくら国民からなんとかしろと言われても、話し合いしか手段がなければ話し合うしかなく、しかしその話し合いには基準点がないからこそまとまるのも難しく、悪循環に陥るんですね。
 ですからこの悪循環を断ち切るのであれば、後は戦争しかないのです。
 外交とは「基準点の無い話し合い」が基本になるワケですが、もしこれを超えろと言うのであれば、後は戦争という外交手段に移るしかなくなるんですね。。
 戦争だけが「常識」とか「基準点」を唯一無視できる、言い換えれば「自国の軍事力が基準点となる」外交手段が戦争だと言えるでしょう。
 
 「強く言って欲しい」
 特に被害者の家族の人がそう望む気持ちは分かります。
 自分の家族が何の落ち度もないのに拉致されるなんて、そんな不条理はないですから、せめて日本政府にそう望むのは、ある意味人間として当然の行動なのかもしれません。
 ただしそれは、結局は戦争を望んでいるコトになってしまうんですね。
 「交渉の場で強く言う」というのは、もちろん言葉通りの行動をとるコトは、出来ないコトはないでしょう。
 例えば交渉のテーブルを叩き付けながら「なんで誠実に回答しないんだこのクソやろう」なんて言うコトも出来るかもしれません。
 文字通りのコトを実行するコトは不可能ではありませんが、しかしそれが交渉の前進に繋がるかどうかは別問題ですよね。
 ですからやはり、暴力という行為を視野に入れない中で相手を動かすためにはどうしたらいいのか、そういう難しい行為はどうしたらいいのかを、ただ怒鳴ればいいのか強く言えばいいのかそれとも別の方法があるのか、そう考えなければならないのです。
 もしかしたら「日本政府が本腰を入れていない」といういらだちもあるかもしれませんが、しかしそれは無いと信じるしかないですし。
 
 もし法律(=警察力という実力行為)や戦争という暴力行為を使わない場合、では自分がそんな交渉を、しかも全くやる気のない相手を動かすにはどうしたいいのかと、リアルに考えてみて下さい。
 国ではなく、1人の人間ですら、暴力無しに自分の望む結果に動かすというのは本当に大変なコトです。
 その上で「強く言って欲しい」と望むのであれば、それはどういう行動になってしまうのか、それはやはりもはや戦争という外交手段しかないと思うんですね。
 「もっと強く」と言った家族の方はそんなつもりはないかもしれませんが、しかしよくよく考えれば「相手の納得を得る必要を認めない方式での解決方法」を求めるコトにそれは他ならないのですから、これは結局戦争なのです。
 
 やえはこの問題の解決のために戦争するという手段については否定しません。
 国際世論も含めた上での広い戦略視野の上で勝てると判断できるのなら、戦争してもいいと思っています。
 しかし多くの日本国民はどうでしょうか。
 そこまで深く考えているでしょうか。
 果たして集団的自衛権、しかもかなり限定されている集団的自衛権程度の問題でガタガタ言ってしまうような現状では実際問題どうなのか、やえは大変な疑問を持たざるを得ません。
 拉致問題の解決にはもちろん現実してほしい、そうしていかなければならないと思いますが、しかしだからといって現実的な外交というモノはどういうモノなのかを考える必要もあるでしょう。
 
 果たして拉致問題を解決するためには「どうすべき」なのでしょうか。