学校は治外法権ではない

 今回の川崎市の中学生殺害事件の一連の報道を見てて、一番強く違和感を覚えるのが、なぜ事前の警察が動かなかったのでしょうかという点です。
 写真も多く出回っているようですが、殺害される以前に、加害者に殴られて顔に大きなアザが出来ていたというじゃないですか。
 これに警察が動いていれば今回の最悪の結果にならなかったとは言いません、それは誰にも分からないコトですからそんなコトを言うつもりはありませんが、しかしそもそもとして、傷害事件が起きているのに警察が動いていないという点がすでにもう法治国家としておかしいのではないかと思うのです。
 
 一部報道によりますと、アザが出来るほどの障害を受けた後に保護者や警察も含めて話し合いが持たれたらしいのですが、それでも警察は「グループ内のトラブル」という理由で刑事事件にはしなかったと言います。
 これちょっと意味が分からないんですね。
 いつから傷害事件って親告罪になったんですかと。
 傷害は被害者の意思に関わらず全て事件として取り扱われるモノです。
 それなのになぜ事件にすらなっていないのか、ハッキリ言ってこういう警察の態度や、また警察に介入を拒む学校の体質、そしてそれを許している社会そのものが、これは間違っていると言わざるを得ないワケです。
 
 これ今回の事件だけに限ったお話ではありません。
 例えば一般の社会で社会人が理由がどうあれ一発でも殴られれば、それはもう立派な傷害事件であり、警察が介入する事件です。
 でもなぜか、学校に通う学生なら、事件にはならず警察の記録にも残らず、言わば闇に葬られてしまうワケです。
 やえはこの体質が「学生のうちなら暴力も許される」という雰囲気を作っているとしか思えないんですね。
 そしてそれは、暴力での解決も許させるという理解に繋がってしまうワケです。
 
 やえは別に体罰の全てを禁止すべきだとは思わないですから、少なくとも教師から生徒に対するある種の暴力までを刑事事件にしろとは言いません。
 むしろそれは「教育」という意味合いで認識されるべきモノでしょう。
 しかし学生同士の暴力はどうでしょうか。
 それは教育でもなんでもなく、同じ立場同士での暴力でしかなく、それは許されてはならない刑事事件のハズです。
 それなのに、それを「青春の一ページだ」とかワケの分からない感情論で語るからこそ、なぜか暴力が許されるかのような雰囲気が醸造され、そして決して現代社会では許されるべきではないヒエラルキーの中での一方的な暴力がまかり通ってしまう学校村社会が出来上がってしまっているのではないのでしょうか。
 
 繰り返しますが、川崎市の事件で事前に警察が介入しなかったから殺人にまでなってしまったと言うつもりはありません。
 しかしこれはむしろ、事件が起きたからこそ浮き彫りになった日本の学校教育現場の不可思議な問題点だと言えるのではないのでしょうか。
 いま現在、こういう理不尽な、一般社会では決して許されない暴力によって心身共に傷ついている子供がたくさんいるのではないかと思うのです。
 しかもそれは、学校教員側の一方的な都合によってです。
 
 日本は法治国家です。
 それは、場所によって法が適用されたりされなかったりするモノでは決してありません。
 なぜ学校という場だけは暴力が野放しにされているのか、ここは大変に疑問に持たざるを得ません。
 暴力は法律によって罰せられるというコトを教えるコトこそ教育だと思うのですが。