社会的意義と民主主義の根幹

 とある国会議員が育休を取りたいという主張をして、様々なところで議論になっているようですので、これについて一言言っておきいたと思います。
 
 この問題、「男性国会議員が育休をとる」というところについて、賛成論と反対論の両方が広く存在しているようです。
 「男女に限らず育休がとれる社会を目指すべきであり、国会議員がそれを率先して行うコトは意義のあるコトだ」という意見と、「国会議員なんだから休むという発送自体がおかしい」というような意見、また「まだ一般的に育休が普及していない中で国会議員だけがとれるようになるのはおかしい」なんて意見もあるようです。
 
 しかしこういう意見を見ていると、どうも感情的なモノが多いような気がするんですね。
 これが過ぎると、かたや育休制度を先進的な制度として取り入れない方が絶対的悪だと決めつけているような意見と、かたや国会議員という立場の人間に対してある種の自己犠牲を強いるコトは当然のコトだと言わんばかりの意見と、どちらもただの言いっ放しになっているモノも少なくありません。
 さすがに「育休取るなら辞めろ」と平然と言ってしまうのはどうかと思います。
 
 でもこの問題はそんな感情的なモノではないんですね。
 まずこの問題は、国会議員が休むとか休まないとか、そういう個人的なレベルで考えていい問題ではないというコトを理解しなければなりません。
 この問題は、仰々しくもなんともなく、まさに民主主義の根幹に関わる問題なのです。
 
 とりあえず、育休という制度は今後普及させていかなければならないという考え方は是としましょう。
 たぶんここについても賛否両論あると思いますが、ここを否とするなら、今回の問題についてはもはや語るべきコトがなくなりますので、前提としてそうします。
 そもそも出生率を上げなければならない以上、必要な制度だと思いますしね。
 
 その上で「国会議員が休みを取る」という行為は果たしてどういう意味があるのかというコトを考えます。。
 これは、特に賛否を明らかにするという場面においては、「一部の国民の意思が、国権の最高機関たる国会において、表明することと反映させるコトができなくなってしまう」という自体に陥ります。
 国会議員は国政の場において国民の声を代弁しているワケですが、その国会議員が欠席してしまうと、その分の国民の声を国政で反映できなくなってしまうワケです。
 
 こういう意味から、国会議員のひとりひとりには代わりは存在しません。
 それぞれの国会議員が、各国民の意志を独自に反映している唯一の存在ですから、他人がその存在を変わるコトなんてできないんですね。
 その国会議員が賛否の場面で欠席をしていたら、その一部の国民の意思は、国政に存在しないというコトになってしまうワケです。
 そしてそれは、国会議員個人が休める休めないという個人的な意味なんかよりはるかに重い、まさに民主主義の根幹に関わる問題であるワケです。
 
 ここをどうするかなんですね。
 男女問わず育休がとれる社会を実現するっていうのはひとつ目標としてあるとしても、だからといってそれで民主主義を壊すようなコトになってしまってはなりません。
 ですからこれは両立させなければなりません。
 どっちがどっちっていう問題ではないのです。
 
 よって、最後は「どういう制度を作るか」に集約されるんだと思いますが、間違ってはいけないのが、感情論で語ってはならないというコトです。
 育休がいいとか悪いとか、男とか女とか、一般人がとか国会議員がとか、そういう嫉妬混じりのような感情論でこの問題を語ってはなりません。
 この問題の本質は、「国民の意思を国会で反映できなくなってしまう」という民主主義の根幹に関わる問題なのです。
 国会議員が育休をとるというコト、それ自体は良しとしても、それを議論する上においては、ここのところを理性的に議論して欲しいと思うのです。