自我を捨てるか、戦うか

 目前の理由としては身代金だったりするISISのテロルですが、しかしその根底の理由は、結局のところ「異教徒をこの世から抹殺せよ」という部分にあります。
 つまり彼らは、「自分と違う価値観を持つ人間の“存在自体を許さない”」のであり、そのためには手段も矛盾も自分の命さえも厭わないワケです。
 ですから、彼らにとっての「終わり」は、この地上から異教徒が殲滅するか、すべての人間が改宗するかしかないのであり、そのために彼らはテロルを続けるのでしょう。
 もしくは彼らこそが殲滅されるかまでは。
 
 現実的には違う落としどころがあるのかもしれませんが、少なくとも基本的な考え方はこうです。
 今回のバングラデシュの件で日本人が標的にされたとショックを受けている人も結構いるようですが、そもそもISISのテロルの精神的な構図を考えれば、日本人もしくは日本が標的にされないと考えている方が間違っていたと言わざるを得ません。
 なぜなら日本はイスラム教国ではないという以上に、「他者に寛容な社会」であり「自分とは違う他人の考え方を許容する社会」だからです。
 日本と日本人は、他人がイスラム教徒であるコトを認めるし、同時に自分がそうでないコトも認めるという考え方を持っています。
 そしてこのコトこそが、もはやすでにISISとは相容れないんですね。
 ISISは「自分もお前も全ての人間が我が神を崇めよ」という考え方であるのですから、いくら日本人が「アナタが崇めるコトは認めます」と言ってもそれだけではISISは許容しません。
 「自分も崇めます」と言わなければ、後は存在の消滅しか選択肢を用意しないのがISISなのです。
 一方がいくら「他人の考え方を許容する」と言っても、それでも共存できない思想があるというのも、残念ながらシビアな現実なんですね。
 今回のテロルは、それを無残な形で突き付けられたのです。
 
 言い換えれば、「日本人全てがISISの信じる神を信奉する」という選択肢以外を選ばなければ、日本人はISISのテロルの標的です。
 後になってから「支援金を送るなら敵だ」と言ってきたのも、こんなのは日本国内の混乱と分断が起こればラッキーぐらいの、単に理由を付けて宣言するコトができるという言語化しやすいというだけの後付けの理由に過ぎません。
 繰り返しますが、ISISは他者を認めないんですからね。
 例えば、日本が一国だけで引きこもって支援も何もしない状態が続いていたとしても、地球の全ての地域がISISの勢力下に収まってしまえば、最後は日本に「改宗か死か」を強要するコトでしょう。
 つまり結局は、相手が他者を認めない以上は、「戦うか屈服するか」のどちらかしか我々には選択肢はないんですね。
 
 「日本人がテロルに巻き込まれた」「ISISとは関係ないのに日本(安倍総理)が自ら首を突っ込んだ」と言っている人は、しかしこのテロルに対する選択肢は「ISISとなる」か「この世から消える」かしか存在しないというコトに気づいていないのでしょう。
 どっちもイヤなら戦うしかないのですが、戦うのがイヤであれば、「自我を捨てて自らもISISになる」しかないのです。
 さらに言えば、「他者にもISISになれと強要する」というオプションもついてきます。
 よって「ISISのテロルに関わるな」と言っている人は、つまり「自分は日本人を捨てISISになります」と「他の日本人にもISISになるよう強要します」と言っているようなもんなんですね。
 もしくは「自分は死にますし、他人も死ぬよう強要します」か。
 果たしてこんなのは許されるコトなのでしょうか。
 少なくとも、やえは絶対にイヤですね。
 
 自分が望まなくても、他人が他者の存在を認めない以上は、戦うか自我を捨てるかの二択しかない状況に追い込まれるのです。
 これをイヤイヤと現実逃避しても、なにもなりません。
 戦いたくなくても戦わなければならない時があるという、どうしようもない現実、そして当たり前の現実を、いまこそシッカリと認識する必要があるでしょう。
 これは自我を賭けた戦いなのです。