集団的自衛権に関する考え方による対応の分類

 国連が認める集団的自衛権の範囲内のモノを日本がどうすべきかっていう問題について、その賛否によって取るべき行動って、以下のように分類されるハズなんですよ。
 
1.集団的自衛権に反対 → 選挙に結論を委ねる。
2.集団的自衛権は現行憲法では違憲だ → 裁判所に判断を委ねる。
3.集団的自衛権に賛成 → 安保法制に賛成。
4.フル集団的自衛権にしろ → 安保法制に反対する理由なし。憲法改正に努力。

 
 この安保法制の議論って他の法案と性格が違うのが、概念自体はすでに多くの国で運用されている実績があるので、効果は保証されているという点です。
 例えば、国家体制自体も現代国際社会に置いては民主主義資本主義と共産主義や王政体制の国がありますように絶対的にこれが正しいと言えるモノはないワケですが、集団的自衛権に関しては仮に国家体制が違おうとも集団的自衛権を否定している国はありません。
 政策論として集団的自衛権を行使しない国や、憲法上使用できないとしている国はありますが、集団的自衛権の存在そのものを否定している国はありません。
 
 よって国連が認める集団的自衛権の範囲内の法律を規定するのであれば、ではその争点は
 
A.政策論として集団的自衛権が必要なのかどうか
B.その国の憲法に合致するかどうか

 
 の2点しかないと言えるでしょう。
 そしてBの場合は、少なくとも日本においては国民の間や国会で議論しても、全く無駄としか言いようがありません。
 いや、理解が深まるという効果を考えれば何の意味はないとは言いませんが、少なくとも「結果を出す」という意味においては全くの無駄です。
 決定権は裁判所にしかないのですからね。
 
 よって集団的自衛権を導入すべきかどうかを議論する部分があるとすれば、政策論しかないのです。
 日本にとって集団的自衛権が国益に適うかどうかです。
 
 しかし現実問題としていま日本でそんな議論が果たして行われているでしょうか。
 やえには全く思えません。
 政策論の場合、民主主義国家ですから最終的には選挙で決定されるべきモノですが、その選挙は国民の意思そのものであり、その国民の意見を醸造させるための政策論的議論は本来必要不可欠です。
 民主主義ならなおさらであり、そもそも決定権者(国民)がそのために議論するのは当然なコトなワケですからね。
 ですから、政治家にとっても政策論として集団的自衛権がどうなのかっていう部分を明示した上で選択肢を提示し、国民的議論の一助となるのでしたら、これは本来の政治のあり方でしょう。
 しかしいま、そんな議論にはなっていません。
 国会でもマスコミ上でも、水掛け論にしかならない合憲か否かの議論と、全く関係ない(圧力がどうだこうだ)お話しか出てこないワケです。
 
 逆に言えば、政策論をしないのであれば、もう議論すべきモノは無いと言えるんですけどね。
 政策論をせずして議論をしろって言うのは、議論が目的ではなく、別のコトが目的だと断じるしかありません。