コメントレス

2012年4月15日

 今日は木曜日ですのでコメントレスの日です。
 以前ご指摘いただいたのですが、コメント欄、空白の改行が出来ないみたいですね。
 なんだか長文をいただいた時に、ちょっと読みづらくなってしまっています。
 ちょっと色々と見てみたのですが、ごめんなさい、原因不明です。
 でですね、あまおちさんが言うには、一行あけたい時は全角の空白を1つ入れて改行すると、一行あくみたいです。
 「 」←このかっこの中の空白を1つ入れて改行してみてください。
 これで一行開けるコトができます。
 よろしくお願いします。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 pipita20さんにかなり長文のコメントをいただきましたので、同意できる部分はおいておき、気になる部分だけにレスさせていただきます。
 

 今回の橋本さんが仰る「都構想」が出来もしない事なのかどうかは、これまた賛否両論、色々あると思うのですが、政治は結果だというのは、まさにその通りですよね。ただし、やる前から「出来ない」と言い切ってしまうっていうのは、違うと思います。

 
 まずこの部分なんですけど、市長の権限ではどうやったって都にするコトは不可能なので、ここについて指摘しているんですね。
 政令指定都市の指定もそうなのですが、都にするのも法律マターであり、つまり国政の権限ですから、いくら橋下さんが市長になって、またそのシンパの方が知事になって、大阪維新の会が大阪の中で大多数与党になったところで、それだけではどう転んでも無理なモノは無理なのです。
 たぶん、これをキッカケに国政の方の既成政党、民主党や自民党の方に働きかけるっていう部分を指して出来るか出来ないかを言っている人がほとんどなんだろうと思うんですが、まずやえとしては形式論を押さえておきたい、というかこの話題の時は常に形式論でお話をしてきましたので、形式的には無理なモノは無理だと言ってきたワケです。
 
 また、国政マターであるコトは分かり切っているコトなのですから、本来「都にしたい」と言うのであれば、市長選挙ではなく国政選挙に出て、国政の分野において主張するのが本来あるべき姿だろうと思っています。
 だからその例えとして、いくら市長選や知事選で勝ったと言っても、「衆議院を解散すべきだ」と言うのは無理筋過ぎると言ったのです。
 都構想を市長選挙で訴えるというコトは、つまりはこういうコトなんですね。
 「衆議院を解散させる」っていう公約を掲げながら市長選挙で戦うってコトです。
 メチャクチャですよね。
 やえはそれを指摘しているのです。
 

 そこで疑問なのが、首長と国会議員は性質も性格も権限も全く別物であるから、政治家としての橋本さんの今後が不明であり、そんな不確定な事をマニフェストに書くことがそもそもおかしい、というご主張だと考えますが、違ってたらごめんなさい。

 
 ちょっと違います。
 やえは橋下さんに対しては、政治家になってからの評価が首長としての政治家の姿しか見たコトないですから、その評価でしか計るコトが出来ないというコトです。
 国会も含む議会議員になったら違ってくるだろうというのはやえの想像で、特に国会議員は下積みこそが重要、安倍さんの失敗は下積み歩あまりしなかったからと思っていますから、橋下さんは議会議員としての下積みをしなさそうなタイプなのでダメになりそうという、これはやえの勝手な想像ですからそれはいいんですが、ですからやってみたら案外上手くやられるのかもしれませんけど、これはマニフェストのお話とは別の問題です。
 マニフェストのお話はさっき言いましたとおりです。
 「衆議院を解散させる」というマニフェストで市長選挙に出るのは無理筋過ぎる、というお話です。
 大阪府を大阪都にすべく大阪の選挙区で衆議院議員に立候補します、でしたら理解できます。
 でもそうでないから、それは矛盾していますよと指摘しているのです。
 

 政治家は政治家じゃないですか、と。一般の新聞に「首長政治部」とか「国会議員政治部」なんて区分けはないと思いますし、そもそも投票に行く有権者がどこかの首長選挙の日と衆議院議員選挙の日で、「性質も性格も権限も全く別物の人達だ」と思って投票には行かないと思います。

 
 実体はそうだと思いますけどね。
 でも建前をキチッと言うコトは必要なコトだと思うので、やえは言い続けましょうと。
 あとこれは、最近よく言っている「権限」の問題とほぼイコールで繋がるんですよね。
 やえは大阪のW選挙の雰囲気を間近では見ていませんので実体がどうなのかは分かりませんが、もしかしたら「都」にする権限が国政にしかない、市長や知事には存在しないというコトすらよく理解していない人って、実は多かったりしていませんでしょうか?
 もしそうであれば、ウソをついたとまでは言いませんが、ちょっとした裏切りになる気がしてなりません。
 「財源は無いコトは知っているけど、子ども手当などのバラマキをします」と言っているのに似ているのではないでしょうか。
 「この人・この政党に入れれば、詳しくはよく分からないけど、バラ色の未来が待っている」という理由で投票したらとんでもないコトになってしまうというコトは、もう日本人は民主党で学んだハズです。
 
 で、これを防ぐにはどうしたらいいのかという部分を考えれば、「国民が賢くなる」という方法と「立候補者がウソをつかない」という方法の、この2つしか思いつきません。
 やえはこの2つをかなり今まで言ってきました。
 特に「国民が賢くなる」という部分は、マスコミや他のブログさんでさえ滅多に言わないのに、やえはここで言いまくって、「国民批判していたらアクセス下がるのは当たり前だろう」と反発されるぐらい言いまくっているんですけど、それと同じぐらい政治家や立候補者にもウソをつくなと言っている、今回はそっちだったというところです。
 
 でも実際のところは難しいですよね。
 政治家は選挙に勝つためには、ある種手段を選ばなくなります。
 これは人間としては仕方ないサガなのかもしれません。
 民主党のように露骨にウソをつくのはともかく、伝える必要のないコトまでを不利になってでも伝えるという人は、特に選挙の際にはめずらしいでしょう。
 そして、国民だって自分が批判されるモノを正面から読んだり聞いたりしたいっていう人は少数だと思います。
 だれだって自分の耳に障りの良い言葉しか入れたくないのです。
 ここが民主主義政治がなかなか改善されない点でしょう。
 難しいですね。
 

 ただ、そのテロルと今回のW選挙の関係がイマイチよく分かりません。「選挙」という民主主義のルール内で、いわば合法的に権力を勝ち取った人に対して、テロルとはちょっと穏やかではありませんね。笑 多分、やえさんはなんとなしに結びつけられたのかもしれませんが、

 
 後の方のレスで詳しくご説明しますが、テロルの基本構造は「目的のために手段を選ばない」というところにあります。
 つまり「崇高な目的のためには虐殺をもいとわない」などという、目的が正しければどんな悪いコトもしてもいいという考え方です。
 これをもって「テロルの理論」としています。
 つまりですね、「都構想とか大阪の発展とかという崇高な目的のためには、府民を裏切ってもいい、選挙でウソをつきまくってもいい、矛盾しまくってもいい」と、もしそのように考えているのでしたら、それは「テロルの論理」であって、肯定できるモノではないと、そう言っているのです。
 もっと簡単に言えば、「崇高な目的」は錦の御旗になんかなりませんよという意味です。
 
 あと、あくまで「テロルの理屈」です。
 テロリズムそのものとは言っていません。
 後に言いますけど、テロルの定義からは外れるからです。
 
 
 

 ぷぺーさん
 制度としての正しさをとるか民の幸福としての正しさをとるか
 目的は正しいが手段としては手続きを省略した、という場合だと、やえさんはあくまで制度の決まり事を遵守すべきだと苦言を呈して内容は認めるのだと思います
 そういう指摘をする人も必要ですから特に反論するような事でもないような
 私個人としては人々が幸せになる為に早期解決を図るならそれを奨励しますが、実際に手順として正しくなければ指摘されるべきなのでしょうね
 今回の件については橋本氏への平松陣営の攻撃のやり方が酷すぎるとは感じました
 あれこそ手段を選ばないで利権を守ろうとする既得権益の集合体の浅ましさなのではないでしょうか?w

 
 最近よく言っていますように、民主主義とは「ほどほどの結果を得るためのモノ」なんですね。
 独裁とは「高い幸福度と最悪の状態が同居するモノ」です。
 その上で、民主主義を採用しているコトは、ハイリスクを捨てるコトによって、ほどほどのリターンを得るという選択肢をしているのですね。
 つまり、「ほどほどの幸福を得るための行為が手続きを大切にする民主主義の制度」になるワケです。
 上を見ればもっと上の幸福があるのかもしれません。
 しかしそれは、同時に最悪のリターンの可能性もあるので、そもそもそういうモノははじめから捨てて、上は無かったモノとして、「ほどほど」を目指しているのです。
 
 まぁ理屈としてはそうなんですが、さらに上があれば目指してみたいと思うのも人間ですから、なかなか難しい問題とは思います。
 
 あと、「橋本氏への平松陣営の攻撃のやり方が酷すぎる」とは、そうなんですか?
 東京にいると、そういう情報は入ってこないんですよね。
 地方選挙ってそもそもそういうもんなんでしょうけど、橋下さんの希有なキャラクターのせいで橋下さんが目立って、だからやえも目に触れて、結果的に批判の材料を目にしてしまったワケですが、まぁ諸刃の剣ですね。
 とは言っても橋下さんは当選されているワケですから、それはもう作戦勝ちなんでしょうけど。
 
 
 

 Mr.チキンさん
 自分は江戸幕末の攘夷志士はテロル行為もしていたという認識ですが、やえさんは攘夷志士をテロリストだと思いますか?
 もし、テロリストだという認識であれば明治維新には否定的でしょうか?
 もしくは時代の問題もあるので仕方ないという認識でしょうか?
 そのあたりをどの様に考えていらっしゃるのか興味をもちましたので質問させていただきます。

 
 テロルの定義っていうモノはかなり以前に書いたコトがあるのですが、9.11の時のあたりにですね、改めてちょっと書いてみましょう。
 
 まず辞書的な意味で言えば、「政治的目的を果たすために暴力的な手段を用いる行為」を言います。
 これはこれで間違いではないのですが、一般的にテロとかテロルとか呼ばれる行為というか現象を見ると、これだけでは定義できない部分があるとやえは思っています。
 なぜかと言いますと、もしこれだけが定義ですと、これは戦争もテロルに含まれてしまうからです。
 でも戦争は戦争です。
 戦闘に対して悪意を持ってテロルだと言う人はいますが、しかし言葉としての定義の問題で考えれば、戦争とテロリズムは別の事象です。
 
 ではなにが違うのかと言いますと、「手段の対象が直接的な当事者以外に向けられる」という定義が無意識的にテロリズムという言葉の中には含まれているからだと思うのです。
 9.11は、これはテロルですね。
 戦争と言う人はあまりいません。
 でも仮に、アルカイダが米軍を直接攻撃していたらどうでしょうか。
 仮に宣戦布告していなくても、複数の軍用機を持って米軍基地に攻撃しようとしていたとすれば、人々はこれをなんと呼んでいたでしょうか。
 「戦争」ですね。
 
 ここの違いは、暴力の対象の違いしかありません。
 政治的目的は一緒です。
 暴力を使うという点も一緒です。
 違うのは、その暴力の対象です。
 テロルと呼ばれる現象を思い出してみてください。
 基本的にはその暴力対象が政治的目的の直接の決定権を持たない者や、非戦闘員などの当事者外ばかりです。
 まったくの民間人が多く集まる場所や、公共交通機関など、形式的に言えばいくらそこを攻撃しても政治的目的は果たされない場所ばかりを攻撃するワケです。
 この点を持って、テロルは卑怯であり、許してはならない行為なのです。
 テロルには必ず卑怯さが内在されています。
 戦場で兵士が兵士を攻撃しても、だれもテロルなんて言いません。
 
 つまりテロルとは、「政治的目的のために、直接的な権限を持たない非戦闘員を暴力的手段のターゲットにするコトによって、間接的恐怖を持って目的を達成しようとする行為」なのです。
 
 さて長くなりましたが、幕末のお話をしましょう。
 まずですね、幕末のお話の場合は、時代背景も考える必要があります。
 例えば、基本的には第二次世界大戦時あたりまでは植民地経営という手法は合法であって、欧米列強は普通に国家運営として行っていて日本もそうしていたワケですが、いまは非合法手段とされています。
 しかしだからといって過去に遡って、欧米は悪いコトをしたとは言いません、というか言ってはいけない行為です。
 日本の中にはそういうコトを言う厚顔無恥で無知な人がけっこういたりしますが、普通は過去の常識を現在の常識で裁いてはいけません。
 まずこれが前提です。
 
 で、幕末ではですね、言論が何よりも上位の価値という世界ではありませんでした。
 武士同士であれば、時に言論で勝てなくても斬り合いで勝てば正義みたいなところが少なからずありました。
 分からないヤツは斬ってしまえと、ただし斬り合いの作法は確立されていて、闇討ちとかしなければ、それは正当な行為として認められていたのが、幕末の世だったワケですね。
 幕末の世では闇討ちもいっぱいあっただろうとは思いますが、でも闇討ちは闇討ちという蔑称を持って蔑まれていたワケですから、これは非合法的行為です。
 ですから、まずですね、言論の勝負より上位にある斬り合いによって成否を決めていたという行為については、現代ではもちろんダメですが、しかしそれをもって幕末のその作法までをも断罪してはならないのです。
 当時はそういう手段によって成否を決めていたコトは、これを「悪いコトで否定すべき点だ」と評価は出来ないワケです。
 こういう意味をもって、維新志士や新選組をテロリストと呼んではならないのです。
 
 次に、そもそもテロリズムの定義からして、維新志士や新選組などの佐幕派系の人たちを考えれば、これは全員が当事者だった(武士だった)のですから、ここでテロリズムの定義から外れるんですね。
 平民出身の人も特に新選組には多かったワケですが、しかし彼らは皆、主義主張のために斬られて命を落とすコトも、はじめから想定し覚悟していました。
 つまり、幕末の志士や新選組や武士達は、全員が言論者であると同時に兵士であったワケで、戦闘の当事者であったワケです。
 ですから、闇討ちは卑怯ですが、武士同士が斬り合いによって言論の正否を決定するというのは、少なくともテロリズムではないと定義されるべきだと思っています。
 
 こう考えると、池田屋事件で防がれたとされる、維新志士側の京都放火未遂事件は、これは実行されていたらテロル以外なにものでもなかったコトでしょう。
 もしですね、池田屋事件が無く、本当に京都が維新志士によって丸焼けにされていたとしたら、その後の歴史ってかなり違うモノになっていたのではないかとやえは想像します。
 テロルによっての正義を、日本人は認めないと思うからです。
 歴史の敗者側として維新の裏の立役者である新選組が、テロル行為を防いで、その後別の方法で維新が達成されたという歴史(本当に放火が計画されていたかどうかの疑問検証もあるみたいですが)は、なにか運命的なモノを感じますね。
 
 やえ、新選組が好きなモノですから、ちょっと長くなってしまいましたが、もちろん幕末は色々と卑怯なコトも行われたとは思いますけど、全体的というか、建前的には新選組側も維新志士側も、テロリズムと呼ばれるような行為によって目的を果たしたとは思えませんので、彼らをテロリストとは呼びません。
 彼らをテロリストと呼ぶ材料は無い、全体的に維新にテロリズムの要素は無かったと言うべきだというのが、やえの考え方です。
 
 明治維新をどう評価するかというのは難しい問題で、多分理屈で言うともっとよい方法があったかとは思います。
 例えば何が何でも徳川家を潰さなくても、当時でも日本全体の国力にプラスになるぐらいの、それでも当時はまだまだダントツトップの大名だったのですから、存亡させるまでもなかったとは思います。
 でもそれはやっぱり人間ですからね、感情を無視しての理屈論はあり得ないでしょう。
 特に毛利藩の徳川家に対する恨み辛みは何百年単位ですから、これを無視するのは現実的とは言えないんだと思います。
 その後の明治政府は藩閥政治が長く続いて、徳川を潰して薩長土肥で固めるという手法は決して少ない弊害を日本にもたらせましたが、それも感情論としては仕方ない部分は多分にあると思います。
 だから、というワケでもないですけど、維新志士も新選組も佐幕系派の武士達も、少なくとも全員日本のために主張して戦って生きて死んだのですから、全ての人がいまの日本の礎だと思っています。
 歴史は知れば知るほど面白いですし、そして畏怖し感謝していきたいですね。
 
 
 

 某府民さん
 はじめまして。この部分に異論があったのでコメントさせていただきます。
 確かに大阪府内では大阪市が大きい経済規模を持っているわけですが、経済圏は市だけでとどまっているわけではありません。商業機能は大阪市、工業機能は東大阪市など、住居機能は北摂などと機能分担している結果としてこうなっていると思います。
 ですから、大阪市を独立させると実情を無視したことになり、経済が今まで以上に悪化する結果に終わってしまうと考えます。

 はじめまして~。
 
 大阪市ほどになれば、むしろそれは、府と切り離して大阪市だけで考えた方がいいんじゃないかと思います。
 だってそれだけの規模を誇るのであれば、むしろ独立した方がいろいろとやりやすくないですか?
 
 というやえの意見に対してですが、これはあくまで「府との経済比率というモノサシで測った場合」の場合です。
 地方分権って、その単位をどうするのかっていう部分は大変大きな問題で、その根拠となるモノサシによって様々な考え方が出てきます。
 例えばやえなんかは藩単位がいいと言っていますが、これは文化とか土地柄人柄をモノサシで見た場合の割合が大きく占めています。
 で、もちろん現代の経済圏で見るというモノサシもあるでしょう。
 その場合は、そういう考え方もアリだと思います。
 これはモノサシの違いなんですね。
 
 ただ経済圏の話になると、これはこれでちょっと複雑そうですけどね。
 そもそも経済圏っていう単位をどう定義づけるのかという問題があって、では関東というか、首都圏経済圏はどうなるのかという問題は、かなり難しい気がします。
 少なくとも東京23区を1つの地方自治体にするのは、あまりにも人口が多すぎます。
 最近のこのお話の流れで言えば、わりと人口の多さに占める行政のあり方という点が大きなウエイトを占めていて、それは「きめ細かい住民行政サービス」という観点からであって、そういう視点では経済圏という単位とは、ある意味対立する軸になってしまうかもしれません。
 難しいですね。
 
 こう言う点からも、やえは地方分権にはわりと否定的だったりするのです。
 
 
 さて、ごめんなさい、やえが新選組について熱く語りすぎたせいで、とんでもなく長くなってしまいました。
 いただたコメントはまだいっぱいあるのですが、今日はこの辺で終わりにしたいと思います。
 また後日に続きしますね。