公人と私人の立場の違いを理解しなくては

 今日はこちらのニュースです。
 

 「クソ左翼」の復興庁幹部、そこまで悪いか 憂鬱なる官僚の「本音暴言」に同情の声も
 
 復興庁の水野靖久参事官(45)が、ツイッター上で市民団体や国会議員に対し「暴言」を吐いていたことが問題化している。報道を受け、菅義偉官房長官は2013年6月13日の記者会見で、事実確認の上で処分を行うとの見解を示した。
特に批判が多いのは、「左翼のクソども」「虚言癖」といった中傷めいた発言だ。一方でつぶやき全体を通してみると、官僚としての率直な「愚痴」も多く、同情論も出ている。

 
 この問題ですけど、最近ツイッターとかブログとかでごくごく簡単に個人で公に情報発信ができるようになってからというモノ、ちょっと公人と私人の立場の線引きが下手な人が増えた、そもそも線引きが出来ていない、線引きというモノすら理解出来ていない人が増えてきているような気がしてなりません。
 公人とは、役人とか公務員とか、国家や地方自治体の職員だけを指し示す意味だけではなく、プライベートの対義語としてのパブリックな立場という意味です。
 
 それはどんな規模であったとしても、複数人人間が集まればパブリックというモノが発生します。
 例えば会社にしても、何十人もいれば色んな考え方の人がいるワケですけど、その中で次の仕事はどういうモノを作っていくのかと1つ結論を出して全員でそれに向かっていかなければならない中で、しかし自分はそれがイヤだからと外の人間に対して「自分は○○の社員だけど□□という製品を作りたい」と会社としての結論とは違うモノを言ってしまうコトは、それは他の社員の意見を蔑ろにしてしまうコトになっていますよね。
 この場合、その人がどういう立場であったとしても、仮に報道係だったとしても、会社全体の説明をするのであれば、個人的意見よりも「会社全体で決めたコト」をキチンと説明しなければなりません。
 人によってもっと身近なコトで当てはめてみて下さい。
 サークルでもいいですよ。
 例えばAHCというサークルは最初から「TRPGサークル」って決まっているのに、そのメンバーのひとりが勝手に「テレビゲームを研究するサークルですよ」なんて外の人に説明したら、いくらその人個人がAHCをそうしたいと思っていたとしても、それは越権行為というか、「AHCとしての発言」ではないですよね。
 それなのに、さも「AHCを代表しての発言」と捉えられるような発言をしてしまっては、それは無責任だと言われても仕方ないでしょう。
 
 それが個人的な小さな一サークルならまだしも、国家機関ならなおさらですよね。
 「同情論も出ている」とありますが、この問題というのは本来そんな程度の大きさの問題ではありません。
 罵倒を浴びせられてしまう仕事の大変さは同情すべき点があるのかもしれませんが、その愚痴や感想を外に誰でも分かるような形で出すというのは、あまりにも無責任であり、一切同情すべきところはありません。
 中には「匿名だった」と言っている人もいるようですが、もともと実名のアカウントだった点と、そもそも
 

 「左翼のクソどもから、ひたすら罵声を浴びせられる集会に出席。不思議と反発は感じない。感じるのは相手の知性の欠除に対する哀れみのみ」

 
 と書いてしまえば、分からないのは個人名のみだけで、どのような組織の人間の発言かというのは丸わかりなのですから、こんなモノを匿名とは言いません。
 まして国家公務員というのは堂々と出していたのですからね。
 むしろこういうのは、例えば「個人名は言わないけど自分は○×商事の人間だ」なんて言う行為と同じであって卑怯だと言った方が適切なやり方なのではないでしょうか。
 言いたいコトがあれば、それはキチンと筋を通して行うべきです。
 内部のコトなら内部で言い、身内の問題としての自助努力で改善させるべきです。
 それなのに、それができないからと、中途半端な匿名で、組織名が簡単に特定できる形で愚痴のようなコトを言って組織を貶めて溜飲だけを下げるなんて行為、これを卑怯と呼ばずしてなんと呼べと言うのでしょうか。
 
 この引用した部分についても、左翼の知性の欠如を批判するのであれば、いちいち国家公務員という立場を公にして言う必要は全くないワケですよ。
 そんなコトは、やえとか別のネットの人達と同じように、パブリックの立場ではない立場で批判できるコトなのですから。
 それなのになぜそうせずして、公務員の立場を明らかにしたまま愚痴のようなモノを吐き出したのでしょうか。
 だったらですよ、もしこれが同情すべきような発言であり、許される発言だと思うのであれば、じゃあその集会の場でそのように言えばいいじゃないですか。
 なぜ言わなかったのですか?
 それは、この人本人も自覚しているからです。
 「公務員としてそのような発言は不適切だ」と。
 もし自らの権限で「不思議と反発は感じない。感じるのは相手の知性の欠除に対する哀れみしか感じません」と言えるのであれば、その場で言っていたコトでしょう。
 しかし言えないからこそ、後になってからツイッターで愚痴を吐いたんですよね。
 つまりこの人は自らの職権では言えないコトだと完全に自覚しているワケです。
 彼が批判される点はここにあるのです。
 ですから本来は、これは他人から指摘されて批判される前に、自ら理解してすべきではなかった、やめるべきだったのです。
 この点において、彼は自覚が低すぎた、辛辣に言えば頭が悪かったと言うしかありません。
 
 そもそも公務員という立場の人は、意見を言う権限なんて与えられていません。
 ここを間違えてはいけません。
 役人という存在は手足です。
 頭から出る指令を忠実に実行するための存在です。
 なぜなら、日本は民主主義の国家だからです。
 民主主義とは国民が主権者であるというシステムであり、国民が政治を動かす仕組みの国家です。
 国民が政治を動かすというコトは、「国民の代表者」が役所をコントロールするというコトです。
 よって、役所の意志決定は全て「国民の代表者たる政治家」が行うのであって、それ以外の人が行っては民主主義の否定になってしまいます。
 そして役人という存在は、「ただ試験に合格しただけの人」であり、「国民の代表」ではありません。
 優秀な人材なのかもしれませんが、しかし優秀かどうかは国民の代表であるかどうかの条件ではありません。
 だから役人が判断をしたり、自分の意見を言ったりしてはいけないのです。
 完全なるプライベートな立場で言うのは問題ない、というか国家システムとは関係ないお話ですが、パブリックであれば当然役人は全ての個人的意見というモノは捨てなければならないのです。
 それが民主主義なのですから。
 
 現職公務員が左翼批判したというコトで保守陣営の方から擁護論が聞こえたりしているようですが、この問題は思想の中身の問題は全く関係の無いお話です。
 ここを勘違いしてはいけません。
 これは公私をキチッとわけなければならないという人間としてのあり方の問題であり、そして同時に民主主義の根底の問題でもあるのです。