皇統問題Q&A 男系がルールと言える証拠は? 1

Q.男系が神武天皇家の絶対のルールだと言える証拠はあるのでしょうか?
 
A.いくつか状況証拠があります。そのうちの1つが「継体天皇」の存在です。

 
 日本は有史以来ずっと法治国家だったというワケではありませんので、不文律と言いましょうか、言うまでも無い常識の中で運用されていたというモノは少なくありません。
 例えば徳川幕府の中で定められた武家諸法度を見ても、これは大きな考え方を定めただけで、いまの法律のように1つ1つの行動を細かく規定しているモノではありません。
 ですから、現代憲法下の世界ではあるルールの存在を証明するためにはその文書なりを出せば済みますが、それ以前の世界ではそれは簡単には証明できないワケで、よってある程度は状況証拠で固めていく必要があります。
 まずこの前提を頭に入れておいて下さい。
 
 継体天皇は第26代天皇です。
 だいぶ昔の天皇ですが、この方実は未だに「初代天皇」ではないかと言われている天皇です。
 というのもですね、この方は本当に「神武天皇の血筋なのかどうか」というのがちょっとあやふやな方だと言われているからです。
 もちろん「正史」ではキチンと26代天皇ですのでここではこの問題は取り扱いませんが、しかしこのあやふやな部分があるにも関わらず正史では26代天皇となっているこのコトが、むしろ男系が絶対のルールであるコトの証明でもあるのです。
 
 こちらをご覧下さい
 継体天皇のウィキペディアのページですか、皇統譜も載っています。
 継体天皇は、先代の武烈天皇から見てかなり遠い血縁関係となっています。
 一応武烈天皇の兄弟と婚姻されていますので縁戚関係では近くなっていますが、それはまぁ後付けです。
 文章の方も見て下さい。
 ちょっと引用します。
 

 出自を巡る議論
 
『記紀』によると、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。しかし、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては種々の議論やまたは推測・創作が多数ある。

 
 つまり、先代の武烈天皇には後嗣(後継者)がいなかったために、「応神天皇5世の孫」と言われている方(後の継体天皇)を地方からわざわざ迎えて即位してもらった、というのが25代と26代の間の関係なワケです。
 よく考えてみて下さい。
 おかしいですよね。
 不自然な点がいっぱいあります。
 当時の目線で見ても、当時は「皇室」という概念はありませんでしたが、それに近い宮家でもなく、都に住んでいたワケでも無いような人をわざわざ都に迎えて天皇に即位させるという行為が、まず不自然です。
 その不自然さは、さらに継体天皇の先代の武烈天皇に兄弟がいるという事実がさらに際立たせています。
 だって、この時点ではまだ全く天皇に近い血筋の人間がいなかったワケではないのですからね。
 簡単なお話、後に継体天皇の皇后となられた武烈天皇の妹か姉かが天皇に即位するという選択肢だってあったハズだからです。
 それなのになぜ、地方(当時はいまよりもさらに地方の「格」というモノは大きく認識されていたハズです)からわざわざ、しかも本当に神武天皇家の血筋かどうかあやふやな方を都に連れてきて、武烈天皇の近い血筋の方がいるにも関わらずその方と婚姻させてまで、継体天皇に26代天皇として即位させたのでしょうか。
 
 ここまで不自然なコトが揃えば、その答えとしてはもはや「男系」しかないと思います。
 それ以外に何か説明が出来ますか?
 宮家として生まれても無い、生活もしていない、都にすらいない、そんな悪条件すら「男系である」というコトの方が上位の条件であるという証左ではないですか、これは。
 武烈天皇の女の兄弟が即位し、そのままその子供に天皇を継承していかなかったのは、継体天皇の女の兄弟の方は男系であるけど、その子供は男系ではなくなるので、その手段は用いなかったのでしょう。
 男系であるコトをこれからも続けるために、男系の男子を連れてきて、その男系の血筋を下の世代に繋がるよう、このようなとても不自然なコトであってもわざわざ継体天皇を天皇として即位させたのです。
 そうとしか思えないのです。
 
 継体天皇だって本当に男系かどうかは分からないじゃないかという人もいるかもしれませんが、しかし「男系であると思われているコト」がこの場合なによりも重要なワケですよ。
 継体天皇の世は、現代のような科学が発達した世ではありませんから、今で言う迷信なども普通に信じられている世界であり、ある程度あやふやでもそこまで言うなら信じるみたいな部分はあろうと思いますし、一番大切なのはその当時の人が信じられるかどうかであって、それは当時は信じたからこそ「正史」になったワケです。
 いまの現代人が信じるかどうかは、この場合さして重要ではありません。
 「その当時にその継承が正史として認められるかどうか」が重要なのです。
 そして正史として認められているという事実が、男系というルールを何よりも絶対視していた証拠と言える、というよりも、そう考えざるを得ないところなワケです。
 
 継体天皇に限らず、男系が絶対のルールでなければもっと簡単に近い血筋での継承で済んだ例はたくさんあります。
 よくやえが例えに出します48代称徳天皇と49代光仁天皇の間もそうです。
 称徳天皇は女帝ですが、なぜ自ら婚姻してその子供に天皇を継承させなかったのでしょうか。
 仮に称徳天皇が子供を産めないお体だった可能性を考慮したとしても、称徳天皇には井上内親王という姉妹がいらっしゃったワケですから、その方に継承するという方法もあったハズです。
 でもなぜそうしなかったのでしょうか。
 なぜ「ひいひいお爺さんの兄弟の孫」という、とてつもなく遠い血筋、これはもはや他人と表現するしか無いような関係の人に次の代を継承されたのでしょうか。
 「男系というルール」がなければ、別の方法があったのにも関わらずです。
 もし「男系は絶対のルールでは無かった」と言うのであれば、この不自然さ、しかもこれは長い神武天皇家の中で唯一の事例では無い、何度かあった「不自然な継承」がなされているのか、ここを説明してほしいと思います。
 
 男系で無くてもいいと言っている人は、男系以外の継承があったというコトを屁理屈こね回して言っているワケですが、誰も「男系で無かった」という証拠を出せていない上に、このような「男系を続かせるためにとてつもない苦労をした」という歴史を無視して、それを否定する証拠も一切出せていません。
 こういう人たちはもう一度皇統譜と歴史を正面から見て、理屈を理性的に理論的に考えてみてほしいです。
 自然に常識的に考えたら、男系というルールが絶対的にあったとしか考えられないのです。