自らの考えは批判も許さないぐらい正しいと思い込むのはもはや宗教か病気

2013年11月7日

 山本太郎参議院議員の気持ち悪さは、ひとえに「福島の子供達のため」という慣用句を付ければ、それが誰からの批判も許さない、いえ批判をするコトさえ許さないぐらい正しいモノだと心底信じ込んでいるところです。
 山本太郎議員の行動原理はすべてここに帰結します。
 「自分が言っているコトは世の中の真理として正しく、反対できる人間なんていない」と思い込んでいるから、天皇陛下に向かっての無礼な態度も平気なのでしょう。
 つまり「自分が正しい=それを阻害するモノは全て間違っている」という思考回路になっているのだと思われます。
 しかしこれは逆に言えば、「他人の意見を認めない」「自分と違う意見は存在すら認めないし、あってはならない」という立場に他なりません。
 むしろ「自分と違う意見なんてあるハズがない」と思い込んでいるからこそ、ちょっと考えれば誰でも分かるような、天皇陛下に直接政治要求を突き付けるなんて暴挙に出てしまうんですね。
 本人としてはこんなに批判されるなんて思っていなかったのでしょう。
 だって本人としては「福島の子供達」のためなら、何をしても許される、それのための行動なら全てが正義の行動だと信じ切っているからです。
 
 ここでの問題は、「他人の意見を認めない」という考え方です。
 一言で「福島の子供達を守る」とか「復興する」と言ったとしても、その方法論は数限りなくあります。
 あまりにも抽象的すぎる目的、つまり「福島の子供達を守る」とか「復興する」とか「国民の幸福を守る」とか「世界平和」とか唱えるのはもちろん構いませんし、それに異を唱える人も中々いないとは思いますが、しかしそれを達成するまでのプロセスや手段というモノは数多くあるワケで、決して1つではないというコトは事実として受け止めなければなりません。
 しかし山本太郎などの人種は、ここを勘違いしているんですね。
 プロセスは1つではないのであり、ここの段階で「他人との意見の違い」が出るのに、それが存在しないと信じ切り、結果としてそういう「他人の意見」を無視し、あまつさえ「意見の違い」すら認めない態度をとるのが、山本太郎などの人種です。
 
 この人達の一番の過ちは、「福島の子供達を守る」という抽象的すぎる目的を主張しそれが正しいと思い込むコトが、イコールで「自分たちの手段までをも批判を許さないぐらい正しい」と結びつけてしまうコトです。
 この段階を経るコトで、「自分の考え方は絶対的に正しい」「自分への批判は許さない」「違う意見が存在するコト自体を認めない」という、周りの見えない考え方になってしまうのです。
 
 民主主義における政治とは、仮に選挙に当選した議員であっても、大臣であっても、総理であっても、その頭の片隅には必ず常に「他の意見もある」「自分とは違う考え方の人もいる」というコトを前提に政治を進めるからこその民主主義政治です。
 ですから、基本的に政治家は、議論や物事の決定のプロセスを大切にするワケです。
 かの小泉総理ですら、自民党の決定にするまでには、キチンと部会や総務会などの決められたプロセスを経て自民党としての決定としました。
 決して小泉総理が「自分の信念だから黙って従え」とはしていないワケです。
 そもそも政治とは、「全ての人の意見を集約した結果としての1つの結論」であり、他人の意見があるのを前提で、でも自分も自分以外の意見があるからこそ、その「1つの結論」には完全に満足できない場合もあるので常に不満がつきまとうワケですが、そういう意味では政治は妥協なのです。
 ここは現実の問題として理解しなければならないところなんですね。
 
 でも山本太郎とかの人種は、それすら否定するワケです。
 ただただ自分の意見だけが正しくて、自分の行動だけが正しい行動だと言い張るのです。
 ですから山本太郎議員は「子供達を守るコトがなぜ政治なのか」と言ってしまうんですね。
 そのプロセスの中に「別の意見がある」ってコトが理解出来ていないのです。
 これはもはや、宗教か病気ではないかと言わざるを得ません。
 山本太郎議員のうさんくささは、この「他人の意見すら認めない」と信じ切っている、その周りが見えていない態度からなのでしょう。