集団的自衛権は当然の権利という感覚

 もうちょっと集団的自衛権のお話を続けましょう。
 
 まずこの問題、日本だけが異常な状態だっていう事実を受け止めるコトから始まるんだと思います。
 先日も言いましたように、欧米だけでなく、先の大戦の戦勝国だけでなく、国の規模とか政治体制とか、そういうモノは一切なく、あらゆる全ての国に固有の権利として認められているのが集団的自衛権という権利です。
 国家にとっては、この権利を持っているのが当たり前であって、その状態が普通なのです。
 確かに日本は長年その権利を一律で一切否定していたワケですが、この「考えるまでもなく否定」、いえ「集団的自衛権なんて考えたくもない」という状態は、かなり異常な状態だったというコトは、それはやはりキチンと日本国民として自覚しなければならないでしょう。
 まして集団的自衛権は日本にとってまったく関係のない権利だったというワケでは決してありません。
 むしろ大変身近な問題として、戦後からずっと日本と共に存在していた権利とすら言えます。
 なぜなら、日本は常にアメリカの集団的自衛権の権利の中で守られてきたからです。
 日米安保によって、日本が他国から攻められた場合、アメリカにとってその攻撃国が全く関係ない国であったとしても、アメリカは自国が攻撃されたと同じように対処する義務をアメリカにだけ負わせているのが日米安保体制なのです。
 日本はこのアメリカの集団的自衛権の中でこれまでずっとやってきたのです。
 今さら集団的自衛権は日本にとって関係ないと言ってしまうのであれば、それは大変に無責任で無自覚な考え方と言わざるを得ないのです。
 
 「日本を戦争出来る国にするなんてとんでもない」
 「自衛隊員に人殺しをさせるのか」
 
 こんなコトを言いながら集団的自衛権を否定する人達がいます。
 ハッキリ言って、軍事や国防や国際政治、そして人間の生活というモノをナメているとしか言いようがない考え方です。
 人間が、その国民が、安全で安心して暮らすために、自らの安全安心を投げたして職務に遂行する人は必ず必要なのです。
 これは軍事に限りません。
 一番分かりやすいのは警察であって、本来警察は自らの命を捨てでも国民の命を守らなければならない存在です。
 自ら危険の中に身を投じるコトによって、その警官自身の安心安全はかなり低下しますが、その代わり他の一般の国民の安心安全を高めているんですね。
 特に近代人間社会は分業社会じゃないですか。
 人間が生きていくための食料を確保するためには農業は必要不可欠ですが、しかし農業はやりたくないっていう人もいて、その人は別の方法でお金を稼ぐワケですが、その一方その人がやりたくないと思う農業を生業にしている人も確実にいるワケです。
 それなのに、自分が食料を欲しているにも関わらず「農業を他人に強いるのか」と言ってしまえば、それはお前は何を言っているんだ状態だぞとツッコむしかありませんよね。
 でもその滑稽な構図は、なぜか軍隊に対してだけ堂々と語られているのがいまの日本の現状だ言ったりするのです。
 
 軍隊は必要だから存在しているんですよ。
 人を殺すための兵器や手段を備えるコトが人間社会には必要だからこそ軍隊は存在するのです。
 そこに目をそらしたらダメですよ。
 
 そもそも集団的自衛権があろうがなかろうが、日本が攻撃されれば自衛隊は出動し、場合によっては敵兵を殺すコトもあるでしょう。
 そしてその場合、現状であればアメリカ軍も同時に出動し、アメリカ兵も敵兵を殺す場合もあります。
 さらに戦争を終わらせるためにその敵国を直接叩かなければならず敵国内に攻め入る必要もあろうかと思いますが、しかし現状ではそれは自衛隊では行うコトはできませんから、日本に代わりアメリカ軍が行うコトになってします。
 すなわち、アメリカ軍は「日本のため」に敵兵をもっともっと殺すコトになるのです。
 「自衛隊員に人殺しをさせるのか」
 こういう現状を分かった上でこんなセリフを吐いているのでしょうか?
 
 この手のセリフを吐く人の何が一番腹立たしいかと言えば、日本だけがユートピアでいたいと思っているその精神です。
 いえ、自分だけがユートピアにいたいと思うコト自体はいいのですが、その結果として犠牲となる人がいっぱいいるコトを一切考えようとしないところが一番腹立たしいのです。
 日本だけが軍隊を放棄して日本人は戦争をしないと決めたとしても、その代わりアメリカや他の国が日本人に変わって戦争をするコトになるだけで、戦争という事象がそれでなくなるワケでもなんでもないってコトを理解していないのが一番ダメなんですね。
 そして、その「自分が嫌なコト」を平然と他人に押しつけて高みの見物をしている、いえ見るコトや考えるコトすら放棄して、しかし自分は正しいんだと開き直っているその姿は、本当に醜悪としか言いようがないワケです。
 自分のために他人に人殺しをさせておいて、その上「人殺しはダメだ」「人殺しを否定する自分が正しい」と言う姿は、自分のために血を流している他人をさらに足蹴にして踏み台にしながら自らは綺麗だと主張している姿そのものです。
 これを醜悪と言わずしてなんと呼べばいいのでしょうか。
 
 集団的自衛権を行使したくないと言うのであれば、それはそれでひとつの考え方だと思います。
 世界には中立国を宣言してどことも軍事同盟を結ばないという選択肢を採っている国もあります。
 しかし現実問題として日本はそうじゃないんですね。
 今現在進行形で「他人に人殺しを押しつけている状態」なのです。
 こういう状態を持って、「なぜ集団的自衛権が必要なのか」と問うというのは、かなり無責任なんじゃないでしょうかと、やえは強く強く感じるところなのです。
 
 日本は戦後ずっと集団的自衛権を考えないように来てしまいましたからある程度は仕方ないのかもしれませんが、しかし現実に目を向ければ、集団的自衛権は「国家の当然の固有の権利」であり、まして日本もその固有の権利に守られてきた、常に日本人のそばに集団的自衛権はあったのですから、まずその現状を振り返るコトからはじめる必要があるでしょう。
 すなわち「集団的自衛権は当然の権利である」という当たり前の感覚をもって、そこを出発点として考えるべきなのです。
 集団的自衛権なんていらないっていう議論もしてはならないとは決して言いませんが、しかし出発点が違うんですよ。
 もし集団的自衛権はいらないっていう議論をするのであれば、集団的自衛権が存在しないっていう位置からその議論をするのではなく、「集団的自衛権はあって当然だっていう位置」「集団的自衛権は現実世界で有効に作用し使われている」という地点が普通の考え方であってスタートであって、議論の開始はこれを前提として始めなければならないのです。
 もしこれをいらないっていうのであれば、まず必要でない理由を述べるのが順序というものでしょう。
 
 集団的自衛権の議論って、「これまで軍事に関しては日本は未熟な国家であったが、一人前を目指す」っていう方向性の中の経過段階での議論なんだと思うんですよ。
 ですから、一人前の国家なんかにはなりたくないと言うのであれば別ですが、そうでないなら、集団的自衛権はその全ての権利を解放するのは絶対条件なんですね。
 この問題は、「そういう立場からの視点」で考えなければならないハズの問題なのです。