選挙は政治家を選ぶ制度ではない。誰もが政治家になれる制度が選挙

 勘違いしている人が多いのですが、選挙や民主主義とは「政治家を選ぶ制度」ではありません。
 それってすごく傲慢な考え方だと思うんですよね。
 「自分は責任はとらないけど、お前を選んでやるから自分のために働け」と言っているようなモノであり、その目線というモノは奴隷を見ているかのようなモノだと言えてしまうでしょう。
 
 しかし、確かに国会議員という立場は一般人よりは様々な権限が与えられていますが、それは選挙の結果による国民の委託の結果であり、こと立候補するという立場においては立候補者も含めて全ての国民は平等なワケです。
 文字通り解散中は衆議院議員は存在しないワケで、選挙とはただの国民だけの間で行われるモノであって、決して自分が本来背負うべき責任を他人に押しつけるための儀式ではないんですね。
 国民の中から国民の代表を決めるモノであって、全ての責任は国民一人ひとりにあるワケです。
 ここを勘違いしてはなりません。
 
 選挙とは、誰しもが為政者になれる制度のコトを指します。
 つまり立候補していない人というのは、あくまで「自ら立候補しないと決断した人達」であって、一段高見から「お前らを仕分けしてやる」と言えてしまうような立場では全くありません。
 どうしても選挙という存在の構造上、立候補者がお願いをし、有権者が選んでやるっていう立場になりがちですが、しかし民主主義のその精神を考えれば、「お願いをしなければ投票しない」と思い込んでいる考え方というのは、むしろ民主主義に反しているとすら言えてしまうのではないのでしょうか。
 お願いする/されるという立場なのではなく、全ての国民のスタート位置は同じ立場であって、その中で立候補しないと決めたのであれば、立候補すると決断をした人にむしろお願いして政治を委託するっていうのが、「誰もが政治家になる権利を有する制度」においては自然な形のハズです。
 立候補しない人というのは、自らの意思で「他人に委ねる」と決めた人なんですからね。
 為政者が現実的に必要な以上、自分がその責任を果たしたくないと決めて他人にそれを任せるというのであれば、やっぱりそれは決して上から目線で「決めてやる」なんて態度で接するべきではないのではないでしょうか。
 
 自分の思い通りの政治を実現したければ、自分が立候補して政治家になる。
 これが民主主義の基本です。
 貴族制や王政ではそれを行う選択肢すらなかったのですから、それを考えれば、結果の部分でどうなのかという点はともかくとしても、国民が選択を出来るという点においてはこれに勝る制度はないでしょう。
 もし自分の政策だけを立候補もせず、多くの国民の付託も得ないままに、政治家に自分の思いだけの政策を採らせたのであれば、それは自分以外の「本来自分と平等な立場にあるハズの国民の権利」を相対的に不当に下げている行為と言わざるを得ません。
 それは民主主義の破壊であり、他人の権利を抑圧する行為に他なりません。
 
 選挙とはどういうモノなのか、今一度考え直してほしいです。
 決して「政治家を選んでやる」という目線で考えられるモノなのではなく、まずは「誰もが立候補できる制度」なのであり、もし立候補しないのであればそれは「立候補しないと自らが自らの責任の中で選択した結果」だというコトを自覚しなければなりません。
 選挙や民主主義とは、自らの責任を他人に放り投げるモノではありません。
 自ら政治家になれる権利を誰しもが有しているからこそ、民主主義は民主主義なのです。