多選禁止を制度で縛るのは国民の意思を無視する行為
国会の方では特定秘密保護法案が大詰めの情勢を迎えているようで、マスコミは必死に叩く材料を探しているようですが、でもやっぱり衆参で過半数を維持している自公政権は安定していますよね。
マスコミが大騒ぎにしようとしていても、国民の間ではそんなに浮き足立つような話題にはなっていません。
やはり政治は安定してこそと言える大きな一つの例と言えるでしょうし、逆に言えば、第一次安倍内閣から始まった1年ごとの総理交代劇にやっと嫌気がさした結果とも言えるでしょう。
右も左も逝ってよし!!
バーチャルネット思想アイドルのやえ十四歳です。
おはろーございます。
さて。
というワケで国会の方はあまり話題もありませんので、今日はこちらのニュースがちょっと気になりましたモノですから、一言言っておこうと思います。
多選自粛条例を自ら提案、3期で退任の政令市長
川崎市の阿部孝夫市長(70)が18日、退任した。
財政再建や市のイメージアップなどの成果を上げた阿部市政は、自ら提案した多選自粛条例通り、3期12年で終止符を打った。
退任記者会見で市政を振り返り、「自分なりに最善の努力をした。就任時の想定以上に川崎は良くなった。達成度は90点」と述べた。印象深い出来事として、1期目は行財政改革、2期目は自治基本条例や新総合計画に基づく新しい市政の枠組み、3期目は臨海部の国際戦略総合特区などを挙げた。19日に新市長に就任する元県議の福田紀彦氏(41)には「少子高齢化で経費は増えるが、税収は増えない時代が来ている。準備を怠ると後世にツケを残す」と忠告した。
この元市長さん個人やその政策はいいんですが、気になったのはタイトルについてです。
記事の本文には特に書かれていないのですが、タイトルからしておそらくこの市長さん、任期中に自ら「市長の多選禁止」という条例案を市議会に提出したんじゃないかと思われます。
また同時に、タイトルは「自ら提案」だけで終わっているので、その条例は可決成立しないままに終わった、でも自ら提出した以上は、自らの信念通りに3期で退任した、というコトなんだと思います。
で、気になったのはですね、3期で自ら退任したっていうコトではなく、多選禁止を条例や法律という制度では縛ろうとしたコトについてです。
自らやめるのはいいんですよ。
それは個人の自由ですし、職業選択の自由は憲法に定められている規定ですから、自ら立候補するコトも、自ら退任するコトも、それは自由でしょう。
ですから、自分の中で「3期で辞めるんだ」と決めるコト、それを公開するコトについては、やえはとやかく言うつもりは全くありません。
しかし条例や法律などの制度で縛る行為は、それとは一線を画します。
制度で縛ればそれは個人の信条を超えて行動に制限を加えるワケですから、この元市長だけでない人に対する制限も含まれるワケで、ここをどう考えるかという問題が生まれるんですね。
多選禁止のお話は政治の話題としてよく出てきます。
権限を多く持っている首長が長くその職にいると癒着の温床になるのであまり多い期数を続けられないようにしよう、という趣旨です。
理屈としては分からなくもないんですが、ただこの論っていうのは、ひとつ大きな見落としがあるんですね。
それは、「市長を選ぶのは市民自身の手によるモノ」だというコトです。
多選によって弊害が出たら、それは選んだ市民自身の手によって4期目や5期目を阻めばいいじゃないですか。
それが選挙ですよね。
市長自身がもう辞めたいと言うのであればそれは個人の自由ですから自由にすべきだと思いますが、しかし、制度で多選を縛るっていう行為は、市民の判断を超えて、つまり選挙の結果を超えて制限を加えるコトに他なりません。
「市長自身も市民自身も市長の再登板を望んでいる」ってなっているのに、制度だけがそれを禁止ってなっていたとしたら、果たしてその制度はいったい誰のためにあるのか分からなくなってしまうでしょう。
まさに悪法です。
悪法も法ですから、もしその方が存在していたら従わざるを得ませんが、しかしこんな有様では決して市民のため国民のためにはならないでしょう。
悪法も法ですが、悪法と分かっているモノをわざわざ作る必要はありません。
政治家は国民自身の手によって選ばれるのです。
この大原則を忘れてはいけません。
言ってしまえば多選禁止を条例で縛るコトは、それは逃げでしかないでしょう。
国民自身の手でやるべき義務から逃げていると言うしかないのです。
そうではなく、常に政治家は国民自身の手によって選ばれる存在だと意識するコトが大切です。
民主主義政治は常に国民の手にあるのです。
その責任から逃げてはなりません。
バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、国民の手による選挙を応援しています。
ディスカッション
コメント一覧
僭越ながら、ご返事をお待ちしておりまする。
>>505氏へ
なるほど。
少しばかり、言葉足らずな部分があったようなので、ここで加えておきたいと思います。
何が言いたいかというと、「要はバランスだ」の一言であります。
多選という結果は、確かに民の望むであったり、安定的な政権が誕生する為の鍵であったりと、ある意味では理想的ではあるでしょう。
しかし、「権力は必ず腐敗する」は古今東西の原則であり、之を見捨てて政治を語ることは無理でしょう。
民にその腐敗やデモクラシーの衰退を悟らせることができれば、それで多選は万々歳かもしれません。しかし世の中は当然、政治の腐敗や癒着を自ら知る事は難しいでしょう。
古代のローマ共和国から帝政に変わった経歴や、それこそ現副総理が語った「ナチスの手口」は顕著な例であります。制度的な面から考えれば、明らかな衰退でしょうが、国民はそれを歓迎したのです。
つまり、「多選であればそれはそれで良い、しかし権力のそれも無視できない、じゃあ法律でバランスをとりましょう」で現行に至る訳です。国民も、これならある程度は納得出来るのでは?
多選は結果であって、目的では無いって事です。
極論に走るとろくなことがないので、暴論云々はスルーしますねw
共産主義も制度の一つであって、理想通り行くなら素晴らしい制度であります。現実的では無いってだけで。
民主制、王政、共産主義、それぞれ良い点悪い点があるわけで、100%を目指すのは当然ですが、100%良い制度で無いから間違ってる! みたいな論はどうかなーと。
>>シンさん
民主党を選んだ結果、その負債も負うのが民主主義ですしね(´・ω・`)
したり顔で「自民党にお灸」したらどうなるかって事を、教訓にし続ければいいんですが…
教訓は安定すると忘れられる物ですしね…
>>505氏へ
ご回答に感謝申し上げます。「踏み違ったのは多選の為の制度であって多選そのものではない。故に多選を非難するのは筋違い」ということですね。
別の角度から考えてみると、それは「イデオロギー(多選)は良いのだからそれでよい」という暴論に走りませんか?
例えば共産主義。あれは19世紀末、それこそ極端な資本主義が東欧を中心に発達した時代の中、労働者を大切にする考え方とみなされていました(私見としては、20世紀後半以降のマルクス主義は時代遅れの思想か宗教であると付記しておきます)。
それが資本主義の裏で多くの人から支持を受けていたのは、パリ=コミューンを見れば明らかでしょう。ところが、それの果ては無惨な粛清や一党独裁に墜ちていった事は歴史が物語っております。
つまり、コミュニズムという目的はいざ知らず、その為の手段は最悪の極みだった訳です。先の命題(?)に戻るならば、「共産主義を非難するのは筋違いである」になりませんか?
しかし、少なくとも日本では、当の共産党すらコミュニズムという言葉を使いたがりません。
以上から考慮するに、
1.多選という目的は(?)はまあ悪くない
2.しかしその為の手段(制度)は高い確率で見えない不正を呼ぶ
3.故に多選は多少なりとも制限すべきである
という風になるのですが、如何でしょうか?
序に付記しておきますが、何時でもこうでなくてはならない、と言いたい訳ではありませんよ。そこは現実との兼ね合いです。
三選禁止で有名なアメリカですら、ローズヴェルト大統領を戦争中ろいうことで、特例を以て三選を認めたのですから。
「適切に運用されていたら問題ありませんが、民主党みたいのが政権についたら無茶苦茶できてしまう、そんな法案には反対です!!!」とか、
「また民主党みたいな政権が出来たらどうするんですか!!! そうならないようなシステムを希望します!!!!」みたいなご意見多いね。
S.Sさんお返事ありがとうございます。
あなたの掲げる問題点t多選固有の問題点ではなく、あくまで運用の問題ではないですか?
多選でなければ上手く行くのなら、民主党政権はなんだったんですか?
多選さえ無くせば黒い霧など起こらないというのは、問題解決策としては安直すぎやしませんかね
>>505氏へ
回答に感謝します。仰る事は、「市長並びに市民が多選という意思決定と責任を負うならば、それでいい。それがデモクラシーたる所以なり」ですね。
なるほど、それはご尤もな話でしょう。しかし、「不祥事を防ぐための論理」に見落としがあるように、本件での論にも泣き所がある所は否めません。
月並みな問題点ですが、それでは、行政の長の不正防止にはどのような策を立てればよいのですか?
55年体制の自由民主党は、それこそ国民と政治家が多選を望んだ結果です。彼らが経済成長という偉大な業績を挙げた事は言うまでもありませんが、一方で黒い霧事件(1960年代後半に次々と不祥事が発覚した事件の総称)、ロッキード事件や佐川急便事件が起きたのは事実です。
勿論、かといって当時の社会党を与党とするなど選択肢にはなかったでしょう。いずれにせよ、公職選挙法等といった厳しい法律とマスコミの目(今よりはまだまともだった筈)があったにも拘わらず、度重なる不正が起きてしまったのです。
この現状を考慮すると、どうしても何処かの段階で、デモクラシーの根本と多選を禁止との兼ね合いを見出さざるを得ないのではないでしょうか。
>>505氏へ
回答に感謝します。仰る事は、「市長並びに市民が多選という意思決定と責任を負うならば、それでいい。それがデモクラシーたる所以也」ですね。
なるほど、それはご尤もな話でしょう。しかし、「不祥事を防ぐための論理」に見落としがあるように、本件での論にも泣き所がある所は否めません。
月並みな問題点ですが、それでは、行政の長の不正防止にはどのような策を立てればよいのですか?
55年体制の自由民主党は、それこそ国民と政治家が多選を望んだ結果です。彼らが経済成長という偉大な業績を挙げた事は言うまでもありませんが、一方で黒い霧事件(1960年代後半に次々と不祥事が発覚した事件の総称)、ロッキード事件や佐川急便事件が起きたのは事実です。
勿論、かといって当時の社会党を与党とするなど選択肢にはなかったでしょう。いずれにせよ、公職選挙法等といった厳しい法律とマスコミの目(今よりはまだまともだった筈)があったにも拘わらず、度重なる不正が起きてしまったのです。
この現状を考慮すると、どうしても何処かの段階で、デモクラシーの根本と多選を禁止との兼ね合いを見出さざるを得ないのではないでしょうか。
>>S.Sさん
民主主義とは、民意が一番正しいという意味では無く、意思決定とその責任の両方共を民が負うという意味でして。
民主主義=国民の選択が何時でも一番正しい なんて前提、あるわけ無いんです。
正しいか正しくないかは、民主主義的には関係無いんですよ。
ちなみに個人的には、原子力発電所の即ゼロは、憲法9条さえあれば日本の平和は恒久的に守られる! とか、核武装さえすれば日本の平和が恒久的に守られる! ていうのと同レベルのお花畑理論だと思ってます
ここでは、「民主主義では民意が第1である」という大原則に沿った考え方かと思われる。
しかし、ここでは苦言を呈したい。
やえさんは、民意は常に正しいとお思いで?国民の選択が何時でも一番正しいとは、自分にはどうしても考え難いのですが。
例えば原子力の問題。少なくとも世論調査では右の報道機関も左のそれも「原子力発電所の即ゼロ」の賛成派が過半数以上(世論調査自体が正しいか否かも論点にされているが、ここでは総合的には正しいと仮定する)。世論に忠実ならば、政権与党は50基以上の原子力発電所を遅かれ早かれ廃炉にしなければならない。
ところが、今の内閣は無論のこと、やえさんもこの見解には否定的な主張が目立つ。政治家を選ぶのが国民自身ならば、国民にある民意こそが一番反映されるべきでは?
このように考えると、やえさんの主張は以前のそれと矛盾しているような気がしてならないのだが……
なんでもそうですが、その独占された権力というのは、一体どのような問題が発生しているから不都合なんでしょうか?
さらにいえば、その独占状態を望んだのは誰なんですか?
具体的に言えば、誰が投票した結果その独占()状態なんですかw
アメリカでは大統領を始めとして州知事、市長などの首長には任期があります。必ずしも当選回数の制限が無い方が良いとは言えないのではないのでしょうか。5選、6選した県知事などは20年以上も権力を独占する場合もありますし。茨城県や石川県の話ですけれどね。