今日はこちらの記事です。
大手マスコミが「記者クラブ」で“報道の自由”を蹂躙!
記者クラブとは、主に官庁や自治体、警察などを取材するメディア各社で構成される組織で、公的機関の一角に常駐し、記者会見をはじめ、そこから発信される情報を一手に取り仕切る役割を担っている。クラブ関係者のみが優先的、独占的に情報を入手する制度であり、他の先進国には見られない日本独特の取材慣行となっている。
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ちょっと長い記事なのですが、読んでみてください。
この記者クラブという存在、たまーにこの手の記事で名前が出てきますので、知っている人は知っていると思います。
記者クラブの中でも有名なのが、この記事に写真で載っている「国会記者クラブ」です。
主に永田町の政治のニュースを取材する記者の集まりで、基本的に国会関連施設にはどこにでも入れて取材が出来るという特権を与えられています。
政治系で言えばこの他に、官邸の記者クラブがあったり、各省庁ごとに記者クラブがあったりします。
例えば厚生労働省なんかは、医療から社会保障から労働関係までわりと幅が広いので、他の記者クラブに比べて専門誌が多くあり、普段生活しているだけでは目にしたこと無いような新聞社や雑誌のマスコミ社がクラブに名を連ねていたりします。
またこの記事にもありますように、記者クラブは政治だけでなく、法曹関係や地方公共団体ごとなど、様々な場面で組織されています。
さて本題ですが、この記事の主張としては、日本の記者クラブ制こそが報道の自由を阻害しており、この制度は廃止すべきだと言っています。
なぜなら、記者クラブに加盟している限られた数社だけに様々な特権が与えられ、それ以外のマスコミには取材すら許されず、しかも新規に記者クラブに参加申請してもほとんど加入が認められないという談合体質を許している閉鎖的な組織だから、という理由です。
また、クラブを組織し常に取材対象と近しい関係になりがちであり、時には取材対象に利益になるようなリベートを、記者クラブに加盟している記者が行ってしまうコトも過去にあったというコトも理由に挙げています。
確かに記事を読めばなかなかなるほどと思うところもあります。
特に具体的な事件を挙げている西日本新聞の記事については、
このケースが注目されるのは、福岡県で起きたことだ。同県の地元紙、西日本新聞は、記者クラブ問題と因縁が深い。00年、森喜朗首相(当時)が「神の国」発言についての釈明会見を開いた際、首相官邸記者クラブに属するNHKの記者が、会見を穏便に済ますための「指南書」を渡していたことが発覚した。この事実をすっぱ抜いたのが、西日本新聞の記者だったのだ
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やえは「神の国発言」そのものは何ら問題ないとは思っていますが、釈明会見の場に記者が総理に指南書を渡すという行為は、さすがにリベートや談合と言われても致し方ないコトだと思います。
例えNHKが「神の国発言は問題ない」と思っていたとしても、それなら独自にNHKの考えとしてNHKが発信すべきコトであって、総理に指南書を渡す行為がそれで正当化されるワケではないでしょう。
これが真実なら批判されてしかるべきです。
ですから、こういうコトは無くしていくべきでしょう。
ただ、だからと言って、記者クラブの存在そのものをいきなり全否定するというのも、適切ではないとやえは思います。
この記事は、記者クラブに参加申請したのに許可されなかったコトについてだいぶ文字数を割いて批判して、記者クラブは無い方が良いという主旨の意見を載せていますが、しかし果たして無制限に誰でも取材できるような状態が好ましいのかどうかというのはちょっと疑問です。
例えば国会です。
もし誰でも取材OKといったコトになってしまったら、かなり治安的に問題になってしまうでしょう。
ただでさえ、日本で最も狙われやすい場所なのですから、日本の中で最も厳重であるべき場所のハズです。
また治安だけではなく、色んな人がバラバラにそれぞれ取材をしていたら、その対応ばかりに終われて本来しなければならない仕事が後回しになってしまうというコトにもなりかねません。
そして取材拒否すれば、言いたい放題好き勝手記事を書いて、果たして何が真実なのか分からなくなり、何のための取材OKなのかも分からなくなってしまうコトでしょう。
さらに、記者会見の場に参加し質問をするという権利も、誰でも無制限に与えていたら大変なコトになります。
これは大手マスコミでも時たまあり得るコトではあるのですが、記者会見でしかるべき立場の人に悪意に満ちた質問や、同じコトを繰り返し繰り返ししつこく、しかも自分に都合の良い返事をするまで手を変え品を変え質問するような記者が出てしまう危険性があります。
例えば、人権擁護法案について、記者自身が全然法案すら読んでもないのに憶測だけで素っ頓狂な質問をし、仮に丁寧に返答をしたとしても、さらにそれを理屈にならない解釈をしてその上で滅茶苦茶な質問をかぶせ、ましてその記者は「人権法こそが今の日本にとって何は置いても解決しなければならない大問題だ」とワケの分からない使命感を持っていて毎日毎日人権法の質問ばかりをくり返し、さらにその取材という名の行為は結局は言葉尻を捉え揚げ足を取るためでしかないのではないかと思いたくなるようなデマゴーグ的な記事しか出来上がらないという体たらくだってなんてコトがあり得ると、決して大げさな想像ではないんじゃないかと残念ながらやえなんかは思ってしまう現実があったりします。
実際、滅茶苦茶な質問をする記者が本当にいたりしているワケですが、それでも現状ではまだ社名が分かり、社会的知名度もどこもそれなりに高いですから、ある程度の自浄作用があると言えますけど、しかしこれが誰も聞いたコトないような社名だったり、そもそも批判されるコトそれ自体を宣伝効果として狙っているような会社の場合(実際、売名行為で批判を受けようとしているんじゃないかと疑いたくなるような雑誌なんて、実際にあったりしますよね)だと、最低ラインの自制効果も消え失せてしまうコトでしょう。
このように、無制限に誰でも取材を許してしまうという行為も、弊害の方が多いというのが実際のところだと思います。
自由という言葉は聞こえはいいですけど、しかし無秩序と自由とは違います。
ここをはき違えている人は、残念ながら少なくないというのが現状です。
ですから、必ずどこかで線引きをしなければなりません。
この記事によりますと記者クラブが未だに存在している国は日本だけというコトですが、果たして他の国はどのようにその辺を線引きしているのでしょうか。
例えば記事にありますような
九州を中心に活動する、株式会社データ・マックス(福岡市)という企業がある。経営情報誌「I・B」を週2回、企業会員を中心に3000部以上発行、ニュースサイト「Net-IB」も開設し、連日2万件近いアクセスを誇る。このデータ・マックスが福岡県庁内で開催される記者会見への参加を希望したところ、同県庁内の「県政記者クラブ」が、その申し出を拒絶した。
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というこの会社は、記事側の言い分だと記者クラブに入れろというコトになります。
しかしどういう理由でこの会社ならOKと、この記事は判断したのでしょうか。
例えばもし、当サイトがサイト名を変えて「やえ新聞」なんてコトにした場合、やはり記者クラブに加盟させるべきだとお考えなのでしょうか。
それとも法人格を持っていなければダメというコトなのでしょうか。
では、今では日本では1円で起業できるワケですから、起業すれば「やえ新聞」は認められると、そういうコトになるのでしょうか。
それともサイトさえ、ブログさえ自分で持っていれば、それで自由に取材の権利を与えるべきだと言うのでしょうか。
でもそれは、突き詰めると結局無秩序な状態を招くだけではないのでしょうか。
やっぱり結局はどこに線引きをするかによるのです。
線引きをした瞬間、切られる側というのは確実に存在し、しかし存在するという理由だけで報道の自由が阻害されると言うのであれば、そんなの永遠に「報道の自由」は自由にはならないでしょう。
もちろん現行の記者クラブのあり方が全て正しいと言うつもりは全くありません。
しかし全否定するのも現実を無視した考え方と言わざるを得ません。
やえは、正直この記事元の雑誌はあまり好きな雑誌ではないのですが、それでも大手マスコミに対し、正面から批判したこの記事を載せたコトに対しては、ある程度は評価出来ると思っています。
内容全てが肯定できるワケではないですし、「歴史的に見て、一度たりとも権力に対抗できたことはない」なんてかなりヒダリに偏りすぎた意見ではあると思いますが、記事の内容について納得できる部分もあります。
本来はですね、こうやってマスコミ同士もお互いに監視し合う状態というのが正しいマスメディアの有り様なのではないかとやえは思います。
例えばさっき例に出したような粘着質な記者がもしいるなら、その他の記者クラブに加盟している会社が、名指して批判をすべきなのです。
そこで記者クラブ談合で黙殺するような体質は改善しなければならないでしょう。
また、裁判はまたちょっと性質が違うのでなんとも言えませんが、例えば官房長官や大臣の記者会見の様子なんかは、記者の質問もあわせて全てインターネットなどで動画で配信すべきなのではないでしょうか。
そして、マスコミだけではなく、取材対象者も、自身で意見が言える独自のメディアを持つべきです。
そうすれば、上記の問題も含めて、色々と改善できる部分は多いのではないでしょうか。
それらを多面的に見て、最後に判断するのは、国民自身であるというのが理想だと思います。
報道の自由とよく言いますが、しかしそれを明確に定義するコトはできません。
ですから現実論としては、やはり複数のメディアが存在し、お互いが監視し合い、切磋琢磨するコトによってお互いの質を高めつつ、国民の選択を増やすというのが、一番理想的な形だとやえは思います。
真実は、他人に与えられるモノではなく、自分で探すモノなのではないでしょうか。
規制があるから自由ではない、と一概に言うのは正しくないでしょう。
結局はやっぱり「どこで線引きをするか」というコトになってしまうのですが、その線引きや記者クラブという制度を生かすも殺すもマスコミ自身です。
記事中にもありますように、戦中の大本営発表だって、結局マスコミ自身がそのこわばった空気を自ら作っていった当事者であったワケで、
その発祥は、明治時代、議会取材を記者が団結して要求した「議会出入記者団」に遡る。戦時中、それらが大本営発表の装置と化した反省からか、1949年、日本新聞協会はクラブを親睦団体であると発表。
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今も昔も「報道の自由」はマスコミ自身にかかっているのです。
この記事も、ただ単に対立構造を煽るだけではなく、どうしたら真に報道の自由が担保されるのか、そういう観点からも考えてほしいと思います。